小学校に上がるか上がらないころ、母と一緒によくお祖母ちゃんの家に行った。
母の自転車の後を、補助輪つきの自転車に乗っていった(まだちゃんと乗れなかった)。
171号線はまだ車の往来も今ほど激しくなく、親子で自転車を連ねて通ってもなんら危険はなかった。
それでも、信号のある交差点はあって、ある日その交差点を通っているときに、ちょっと母より遅れてしまった。
なにせ信号なので、ちいさな私は、必死で漕いだ。
そしたら、スピードがでて、いつもどっちかが地面についているはずの補助輪が両方とも浮いてる状態になった。
「もうコマ、浮いてるやんか!」
その声が、交差点のいつも外に立っていた交番のおまわりさんだったか、振り返った母だったかは定かでない。
乗れてる!! コマなしで、自転車に!
うれしかった。
ある意味、追い詰められた状況になったからこそ、達成できた。
そんなこと、ほかにもある。
アメリカにいるとき、テニスクラブのチームに入っていた。
団体戦でのダブルス。私たちは負けていて、とうとう相手のマッチポイントになってしまった。
その時、ネットにいたバニースというパートナーが、サーブしようとする私のところに来て、“Let’s do Australian!” と囁いた。
オーストラリアン・フォーメーションといって、ネットについているプレーヤーはサーバーと同じサイドに位置し、サーバーはセンター近くからサーブする変則的な戦術である。私たちは時々それを練習していたが、試合では使ったことがなかった。
どうせ相手のマッチポイントだ。いちかばちか!
突然のオーストラリアンはうまくいって、相手方はいきなりペースを崩し、その後もミスを連発、結局ひっくり返して勝ってしまった。
いまでもサイン帳には、”See? What about our Australian that made them crazy!”というバニースの言葉がある。
もうひとつ、思い出した。
ジャズを歌い始めてまだ日が浅いある日、N子さんの歌を聴きにしょっちゅう行っていた曽根崎のライブハウス。
その日も行ったら、「あ! ええトコに来た!」とバンドの人たち。
N子さんが急遽、お通夜に行かねばならなくなってボーカル不在の状況になっていた。
「え~~?譜面もないし、平服やし、そんなん無理~~~!」
「だいじょぶたいじょぶ!メモリーでできる曲、何曲かあるし、なんとかなる!」
ということで、むりやりその日のボーカルを務める羽目になった。
まだ数少ないレパートリーのなかから「あれは?」「これは?」と必死で、できる曲を考え、無我夢中で歌った。
ライブは無事終了した。ギャラまでもらった・・・「おつかれさん!」
「やれば、できる」んか・・・
人間、ときには、窮地に立たされることも必要なのかも。
どたん場になれば、どっかから、意図しない力が、うまれる。