歩くと頭がじんじんする、冷えた季節。
12年前、外では世界が歪んでいて眩暈がした。
埃や土壁のにおい、遠くの救急車の音。
公園や校庭を埋め尽くすテントや仮設住宅の群れ。
歩道を黙々と歩くリュックの人々と、その中を縫うおびただしい数の自転車。
給水車に群がるポリタンクの列。
テレビをつけるとコマーシャルの代わりに公共広告機構のお知らせがひっきりなしに。
「思いやりの心」や「頑張り」を鼓舞する、痛々しい呼びかけ。
いまでも「エイシィ~♪」と聞くたびに、あの時が蘇って心がうずく。
あの時、与えられた状況を人々は黙って受け入れるしかなかった。
なぜなら相手は偉大な大自然。文句の持って行き場がない。
いま12年たって、街はあたりまえのように垂直に建っている。
新しく耐震設計をほどこしたビルや家屋は、もうオールマイティだ。
公園にも平和な静寂が訪れ、高速道路も線路の高架も、ぶっちぎれたり横倒しになったりするわけないじゃん!とばかりに街に普通にとけこんでいる。
「ときがすべてを解決する」
そう?
ある意味あたっているが、ある意味あたっていない。
あのとき愛する人を失った人たちはどうだろう。
きっとあれから時は止まったままだ。
あの瞬間のまま固まって動かない時計の針のように。
震災だけじゃない。
毎年いろんな不慮の災害や事故に、家族や愛する人を突然奪われる人たちが大勢いる。
「ときがすべてを解決する」なんて、当事者にとっては断じて受け入れられない概念。
おおきな喪失感は、10年たっても100年たっても、けっして風化しないに違いない。